昭和50年09月07日 朝の御理解
御理解 弟82節(の途中から)
「どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。」
私共がこうしてこの世に生を受けさしてもらうて、それぞれの営みを致します。そして信心神縁を受けて信心に成らしてもらうのも、一生神も仏も知らぬのもそのままであります。只その神縁と云うても、只拝みよります、何々さまを信心しよりますと言うだけで、只悲しい時の神頼み的な信心もあります。お道の信心の在り方と言うものは、何処までも人間の本当の生き方。
天地のお心に添う生き方を天地の道理に合うた生き方と言う事にもなる事だと思います。愈々この世に生を受けて来ておると云う事は、本気で魂を清める事の為に、この世に生を受けて来たんだと、言う信心のギリギリの根本的な所云うならば、天地の親神様が教祖金光大神様を差し向けられて、この様に取次助けられると言う働きを受けられる。その取次助けられると言う事は、魂が清められるとか、魂が助かると言う事が、金光教が生まれた、目的であると言うても良いのです。
けれども様々の持っておる難儀と云うもの、その難儀というものから縁を頂いて、神様を拝む様になり、段々信心をする様になるのですから、やはり願う氏子におかげを授け、しかる後に話を、御理解申して聞かせて本当の事を分からせて呉れよと云うのが天地の親神様の願いなんです。ですから何年信心しよってもです。その神様の願いであるところのです、願いに基ずいて私共が信心をしなければね、金光様の信心しておっても、矢張り大した値打はないと云う事です。
私は今日は何処を頂くだろうかと思うたら、この御理解八十二節の一番最後のところの、どこの太郎やら次郎やら分からぬ様になろうぞと、これは全然この御理解は意味が違いますけれども、只ここん所だけを頂きましてね、思い当たる色々な事を聞いて貰おうと思うのです。皆さんの周囲にも沢山あろうと思うのですけど、本当にその家が繁盛して、そして亡くなられますと、もう素晴らしい告別式があって、素晴らしい奥城建立ですかね、石碑を立ててそしてまあ致します。
それがねだんだんというところもあります。数年間のあと何十年間の後にと言う事もありますけど、本当にこれは私が知っております。久留米に私が酒屋の小僧に行っとった時分のお話ですけれども、それはもう飛ぶ鳥を落とす様な大きな商売をしておられました。それが私北京から帰らせて頂きましてから、そこのお墓が津福町に御座いますから、その前に七年間もお世話になった家でありますから、そちらのお墓参りを帰りにお参りさせて頂いた事があります。
そこの横に或大きな、今私が申しております方の家の、いわゆる寄墓の納骨、あれは何と云いますか、何々家代々之墓と云う奴ですね。そりゃもう見事なお墓でしたよ。所が参りましたら驚いてしまいました。石碑は横に倒れていました、もうそれこそ草の中にお墓がある様にしているんです。帰りに私が元勤めとりました荘島の判光屋さんが、金丸小学校の前におられると言う事で一寸挨拶に参りました。
そこででした石橋と云われますが、石橋家の横にあった〇〇さんの墓は、墓を守する人はないのですかと私が言うたら。それがもうまだ戦時中だったそうです。失敗なさってもう何処に行きなさったじゃ分からん事なっとる話を聞きました。話を一寸今日思い出させて頂いたんですけどね。それこそ何処の次郎やら太郎やら分からん事なってしまっているのです。勿論是は霊の世界に於いてもしかりと言えるのじゃないでしょうかね。例え告別式はささやかでありましても。
それが年々再々子孫が繁盛して行って先祖のおかげと言って、お先祖を守り抜かせて頂く様な私はおかげを頂かなければ、また祭って貰えるだけの力をこの世で頂いとかねばいけないと云う事です。それこそまあ色々と沢山の霊の世界に、霊さん達があるやら分からんでしょう。けれどもですそれこそ歴然として何々の霊として力を頂き、お徳を受けて霊ながらの働きを受けておる霊。
それこそどこの次郎やら太郎やら分からぬ、それこそみすぼらしいこの上ない状態で、言わば右往左往しておる霊達の世界を私共が霊の世界を少し分からせて頂いてそれを思うです。どうでも私共が教祖様の御教えを頂いて、その改まりに改まらせて頂いてから、家柄も変わって來る。人柄も変わって行く人間も出来て來る。お徳を受けて私共霊の世界で、何処の何々と、何処の太郎やら次郎やら分からんと云うのではなくてです。
所謂どこどこの何々の霊として天地の親神様から特別のお取立てをが頂ける様な、おかげを頂く為にもです、本気で魂を清める。昨日の御理解で頂くと心を洗うと言う事を頂きましたが、もう本気で都度々に心を洗わせて貰う精進さして貰うて、おかげを頂きたいと思います。昨日は母が亡くなりまして、丁度五十日にあたりますので五十日祭、それに新木の間からこちらに霊舎にお移りを願う、云うなら霊様の仲間入りをなさると云う、合祀祭、一緒にお祭りをすると云う。
お祭りが善導寺の親先生の御祭主のもとに、本当に有難く奉仕させて頂きました。皆さんの本当に真心こもる、御参拝やらお供えなど、沢山頂きまして有難いと思うた事ですけど、昨日も終りまして、皆さんに御挨拶させて頂いた事ですけれど、丁度新木の間から祭主が御霊様を奉してもう開扉をしてあります。それを納められた途端に中に御神鏡ね、霊鏡とも云われますが、丸い鏡が入ってます。その鏡にはっきりと母の姿が映ったのですよ。私はびっくりしました。
そりゃ聞いてはおりました。霊様があれに御神鏡の中に入るとか、姿をはっきり鏡に現さるるとか聞いとりましたが、昨日の様にあまりにもはっきり母の姿が、もう何と云うですかね、ありありとあげな事は初めてでした。もうはっきりと、もうびっくりしました。取分けこの黒の羽織を着ている、その羽織の紐のね、もう真っ白いのが印象的でした。これは本当に羽織の紐と言う事は、これは心と言う事でもありましょうね。
これは胸につかうとるものですが、そしてはっとしてから感動して御礼を申し上げて頭を下げてから、フッと頭を上げましたら父がね紋付袴の素晴らしい羽織袴の姿で、矢張り姿を見せました。ほんとに母が亡くなります二週間程前だったでしょうか。家内と妹に遺言をしておくと。遺言てんなんてんあんたそげな事云うちから、もう一年長生きすりゃ八十八のお祝いをしてから、それまで頑張らにゃと妹が申しましたそうですが、いえ自分の事は自分が一番よう知っとると言うてまあお話をしたと言う事です。
私が亡くなると云うても、私の事は心配いらんと、もう本当にもう自信たっぷりで、もう自分は必ずおかげになると確信しておる様です。生きても死んでも天と地はわが住家と思えと云われるから、天地の親神様のお膝元に帰らせて頂くのであり、取分けじっちゃまが迎えに來らっしゃる。手を引いてやると約束してあるからと申しました。何かそういう裏付するものを昨日感じたんです。両親の姿をその御神鏡の中に拝みまして。本当に十日十日の旬日祭を仕えさせて頂く時でも、思いも掛けぬ人達からお供えがあり。
もう是ばっかりは私もたまがりましたけれども、花のお供えがもう都度都度でした。もうそれこそお供される方が花やさんですから、もうもうあのほんに一う抱きづつでした。だからこちらにもあちらにも、だから私は霊神のあれを覚えておられてから、あの知っておられたかと思ったんです。あの月次祭たんびんにお供えなさるんです。所がその月次祭に忘れておったからと云うて持って見えたのが丁度三十日祭か何かの旬日祭の時でした。して見ると月次祭とか旬日祭とか念頭に置いておられて。
お供え下さっても有難い事ですけども神ながらに、特に花好きで御座いましたから、沢山やっぱりお花を頂くとだろうと私はその都度々に思いもし、言うて来た事で御座いますけど、おかげを頂いておりました。教祖様の御教えに信心して段々年を取って行く事は、信心をすれば段々位が付くものじゃと教祖様が教えて下さってあります。だから信心をして居れば、金光様の信心しておれば、五年よりも十年二十年と信心しておれば、果して本当に位が付くものだろうか。
私はその事を昨日そうではないと教祖様が仰る所の、年を取るに従って信心の位が付くものじゃと仰るのは、信心しておればです、一年一年有難うなって來ると仰せられる。一年一年有難う成って行く様な信心をさせて頂いて初めて位が付くんだと言う事を思います。昨日の御理解に一段一段信心が進むと言う事を有段者、剣道とか柔道の有段者。段を貰う位ならなければ、教えると言う様な事は。
出来ないと言う様なことを申しました様に、言うなら有り難うならせて頂くそのだんかいと云うものがです一段一段、いわゆる一年一年有り難うなって行くと云う、それが一段一段位が付くものじゃと言う事になるのです。だから信心しよるからだけではいけんのです。私はどなただったか、失念しましたけれども、母のお夢でお知らせを頂いて下さった方がお届けをされました。母の若い時の姿で、お便所の中に落ち込んで、わやわやしておるところを頂いた。
お婆ちゃんが、便所の中に落ち込んで御座ると思うておったら、それが見事なお風呂になって、風呂の中で如何にも、極楽と云うじょうたいであったと、母が湯舟につかって居るお知らせを頂いたと、こういう方が御座いましたが、私は昨日皆さんに聞いて頂いたですけど。若い時の苦労は買うてでもせろと言う事は、あれは本当に信心を頂いてから、一段一段位を頂いて一年一年有難うなって行く、人の上に言われる事であって、あれは俗に申しますけどね。
若い時は苦労をして晩年にはこう儲け出して、地位やら名誉もできて幸せと言うだけではなくてです、若い時の苦労をさせて頂くと言う事は、それを信心に依って修行として神様が受けて下さる様な苦労をさせて頂くならです、所謂一年一年有難うなって行く事になればです、もう晩年になればなる程せ、云うならば幸福云うならばこの世で極楽と云う様なおかげの状態が開けて来なければならないそういう意味でのです。
本当に金光様の信心を頂いて行く者の上にです、若いときの苦労は買うてでもしとかんならん。それはそのままがお徳になる事だからと云う風に思うです。ならここに一般の若い時にはそうな苦労をして、そりゃもう根性一つで儲け出したと言う年寄りがです、私どんが若い時にはこげな苦労をした。今の若い者はこうのああのと言う様な若い時の苦労であるならです、返って我になり根性になっておる。根性が悪うなって行く様な結果しか生まれて来ないのが通例であります。
ところが信心をさせて頂いて、若い時に苦労をさして頂くこの苦労はです、神様がそのまま修行と受けて下さるのですから、矢張り一年一年有難うなって行くのであり、だからこそ年を取れば取る程一段一段位が付くのじゃと言う事が合点が行きますね。その一年一年有難うなって行くと言う事を、年を取るに従って信心の位が頂けると言う様な信心をさせて頂いて、私は始めて霊の世界でも霊ながらの働きが出来、天地の親神様からもいよいよお引立てを頂いてです。
そういう徳が子孫にも残ってです、何時いつ迄もそれこそ末代迄もその霊様の、例えば合楽教会が続く限り合楽の初代教会長である私、大坪総一郎の親先祖の徳と云うか、親御さんが大変熱心な信心をされて合楽教会があったんだと云う事になるのですから、もう何時いつまでも合楽教会のある限り霊様達の名はそこに輝かしいものになって來ると私は思うです。お墓を守る人も無くなる。それはもうその当時、どれだけ掛ったか分らんと云う位素晴らしい。なら何々家代々之墓を建立致しましても墓は倒れる。
そして草の中にいかって御座る様な事になったんでは、どこの次郎やら太郎やら、是は何処の何々家とかいてあるが、是はどこのと云う位の事では、何処の太郎やらそれこそ、次郎やら分からんごとなって御座る姿だと私は思うです。ですから信心の眼目と云うものがね、どうでも皆さん本気で心を洗わせて貰う、本気で魂が清まる事を楽しみにです、年を取って行くに従って一年一年有難うなって行く。
年を取るに従ってああ是が信心の位だと思われる様な位を受けて、魂の世界で霊ながらの働きが出来る様なおかげを頂きたい。又天地の親神様はそういうおかげを頂く事の為に、金光大神をこの世に差し向けられたと私は思います。又事実そうですなのにです。只金光様の信心をしておると云うて、おかげからおかげに終始したんではです、何年経っても有難うならんでしょうし、何年経っても私は位は付かんと思います。だから心を洗うと云う事は、もう日々絶えず何処ででも出来る事です。
御神前に向かわせて頂く時に、やはり手口をすすぎ洗わせて頂く様に、事何かに直面した時にです、自分の心の状態を、あヽこれで良いのかと心に思わせて頂く。その心がもう既に心を洗う事です。そういう生き方を身に付けて行く時にです、一年一年有難うなって行く事はもう間違いありません。一年一年有難うなって行く信心をさせて頂きたい。そこには、年を取る程位が付くものじゃと云うその位が勿論付く。ですからあの世この世をかけて、お互いが今難儀を感ずる苦労をしておるならばです。
それこそそれは買うてでもさせて頂かねばならん程しのものを、いわゆる只でさせて頂いているのですから愈々有難いです。私はわざわざ買うてからとか求めてからまではする事は要らんと思いますけど、神様が求めて下さる今の時点でですそこに修行がある、苦労があるとするならね、その苦労を愈々修行として頂いて、愈々自分の心が神様の向かうと云うか、有難うなって行く、その信心の稽古に向けて行かねばいかんと思います。今日は特別何節と云う事でなくて、八十二節の一番最後の所にあります。
全然この八十二節とは関係はありませんけど、どこの太郎やら次郎やら分からん様になろうぞと云う所だけを頂きましたから、お互いが信心がないなら尚更の事ですけれども、信心があっても私共が死んだその先が、何処の次郎やら太郎やら分からん様なあやふやな霊様で終らなければならない様な事のない様な信心をです、あの世この世を懸けてさせて頂く事に肝を決めなければいけないと思う。願う氏子におかげを授け、それはおかげの世界であります。けれどもそのおかげの世界から。
そしてその後に理解申して聞かせと仰るその理解の全てはです、一年一年有り難うなって行く事のための年を取れば取るほど、くらいが付くほどしのおかげの頂けれるお話、御理解ばかりがなされてあるので御座いますから、神様の本当に御心に添う信心、神様の、云うなら氏子にかけられる願いを金光大神にお頼みになった、そのお頼みが成就して行くおかげを頂きたい。そういう私は運動が今御本部で言われておる所の御取次成就信心生活運動だと思います。
只御取次成就信心生活運動がです、只観念的な信心生活、または御利益に終始したと云った様な事では御取次が成就したと云う事にはなりません。御取次が成就すると言う事は、今日聞いて頂きました様な内容がです、身に付くと言う事が御取次成就と言う事です。その為にその内容として、愈々本気で合楽示現活動に参画させて頂いて、愈々おかげを頂いて行きたいと思うですね。
どうぞ。